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お土産用「ういろう・羊羹」




 東海道を歩いていて、各地のお土産を物色しているうちに、何か引っかかる物がありました。日本の古くからある伝統和菓子の「ういろう」「羊羹」。ところが、静岡の「追分羊羹」は、どうもこの中間産物のようです。米粉を使った羊羹。そもそもの発祥は、徳川家光の頃、駿府御用の府川屋新助が箱根に滞在した際、病気療養中の明の僧侶から教えてもらった「お菓子」だという。元の僧侶が移り住んで「ういろう」を小田原に伝えたという話。どうも関連性があるような気がしてならない。それはそうと、「ういろう」といえば「名古屋」。「羊羹」と言えば「とらや」など、これらはもしかしたら、歴史上どこかで繋がっているのではないかという疑問が生まれました。
 それじゃ、調べてみましょう。

ういろう・羊羹の違い

 そもそも、「羊羹」とは、なんで「羊」なの?
 元々は、羊の肉を煮込んでいくと、脂身がゼラチン状に固まります。このゼラチン状の羊の脂身のことを「羊羹」と呼んだそうです。ゼラチン状の反固形物を温め戻すと、羊のスープが出来、保存食としても栄養食としても喜ばれたとのこと。なんと、南北朝の時代。日本では飛鳥時代の頃ですね。
 その後、これが鎌倉時代から室町時代に伝えられたが、禅宗の日本では、獣肉を食すことが禁じられていたため、小豆を用いたとされている。元々は、小麦粉や蕨粉などのデンプンで練った物を蒸して固めた「蒸し羊羹」が主流であったが、後に、「寒天」が用いられ「練り羊羹」となったようです。この「蒸し羊羹」の派生種として「芋羊羹」「ういろう」があると、ウィキペディアには書かれている。また、中国の唐にも芋肝餅と呼ばれていたとの記述もあるようです。

 一方、「ういろう」は、元朝に仕えていた僧侶が、明朝による支配を逃れ博多に亡命し、室町幕府三代将軍「足利義満」に招かれ京都で「外郎薬」を献上し、その末裔が小田原に住み、薬を食べやすい小豆に買えて「お菓子のういろう」と称して献上品としたと言われています。「ういろう」の名前は、中国・元での役職の「礼部員外郎」という薬を調達する官職で「外朗」からとったとされています。「ういろう」は、米粉を用いて餡を蒸して固める「蒸し羊羹」の一つとされています。

 「ういろう」
 米粉、もち米粉を使い、蒸し固めたもの
 「羊羹」
 寒天を使い、練り固めたもの(一部蒸し羊羹もある)

 また、別の分け方では、
 「ういろう」
 米粉、もち米粉自体が主成分で、蒸した餅状の米菓子
 「羊羹」
 小豆餡を米粉、葛粉、蕨粉、デンプン、寒天などで固めた菓子

 
 共通点は、どちらもほぼ同じ時期に、中国から伝わっていること、製法も、デンプンを蒸していること。共通点が多いというか、そもそも同じ物だったのではないかと、私は推測しました。

ういろうの歴史

 元朝の薬を調達する官職であった陳宋敬が、明朝を逃れ、博多に亡命し、日明貿易をはじめたとされています。その際、中国の優れた「薬」を販売した際、商品名として自分の役職名「礼部員外郎」から「外郎(ういろう)薬」としたことが興りだとされています。外朗薬は、別名、透頂香(とうちんこう)とも呼ばれ、汗臭さや、口の中の清涼感を求める薬で、「仁丹」のような薬だったようです。この黒く四角い形状が「お菓子のういろう」が似た色をしていたという。
 この外郎薬が、お菓子の「ういろう」になったわけではありません。あくまでも、外郎さんのメインのお仕事が、この薬売りだったと言うことです。

 ここは、正確な記述がありませんが、そんな「薬」の中に、ゼラチン状に固めた羊のスープ(滋養強壮)などが含まれていたのではないかと、想像がつきます。砂糖がまだほとんど無い時代のことで、芋の甘さを取り入れて「芋肝餅」や、羊のスープに似た色の小豆を煮込んで、芋や葛なので固めた物がすでにあったとも考えられます。お菓子と言うより、滋養強壮という薬効を目的としていたのではないかと推測します。
 不思議なことに、今販売されている「ういろう」には、小豆餡がメインではないこと。一部、「ないろ」という商品名として売られていますが、「ういろう」のメインは、米粉と蕨粉を湯水で打ち練った物を竹かごの形に入れて、蒸し固めた物が原型です。砂糖や餡を混ぜるのは、ずっと後世になってからのようです。逆に「羊羹」は、小豆餡がメインですね。

 さて、この「お菓子の外郎」がいつ出来たかもはっきりしていません。鎌倉時代末期の南北朝の頃から室町時代にかけての書物には、「羊羹」としての記述が歴史上の「最初」であるとされています。このときの「羊羹」が小豆餡を用いていたかは定かではありません。また、陳氏(外郎家)が、足利義満に招聘され京都に移り住んだとされる「外郎」の歴史もまさに同じ時であります。おそらく、陳氏(外郎家)が、外郎薬とともに京都に持ち込んだのでありましょう。「ういろう」と呼んでいたかは定かではありませんが。おそらく、この二つは、同じ物か、あるいはいくつか同類の「お菓子」があった中での二つなのか。少なくても、この段階で、明確な「違い」はなさそうです。

 その後、外郎家の4代目の子「宇野氏」が小田原に移り住み、小田原での「ういろう」の歴史がスタートします。その際、小田原に呼んだのは、北条早雲。そして、それに関与したのが今川氏親であろうと思われます。この宇野氏が、今川氏親のもとに下ったという記述があるようで、今川氏親が招聘し、北条早雲のもとに派遣させたという流れが推察されます。
 一方、京都の外郎家本家は、跡継ぎが途絶え消滅しました。ただ、「外郎薬」を含め、「ういろ」「羊羹」の製法は、京の和菓子屋に伝わり、「高級なお菓子」として使われたようです。

 小田原に移った外郎家が、北条早雲に外郎薬を差し出す際、一緒に献上した物が、「お菓子の外郎」の始まりとされています。このお菓子の外郎は、通常では販売せず、献上品としてまた、正月の縁起物として、家族等の身内での振る舞いであったらしいです。また、甘藷や甘葛などの自然な甘みを取り入れ、羊羹もういろうも、「お菓子」へと変わっていきます。
 小田原ういろうが一般的になるのは、明治時代に入り、小田原ういろうが店頭販売されたときからとされていますが、それより以前、江戸時代中期以降江戸時代末期にかけ、各地で「ういろう」などが売られるようになってきています。江戸時代中期に「ういろう餅」や「ういろう売り」の絵があり、庶民のお菓子になっていたようです。全国的に有名な名古屋名物「青柳ういろう」でも、明治の創業で比較的最近だと言うことが、むしろ不思議ですね。


五建外郎生ういろう-min

京都・五建外郎

五建外郎屋は、江戸末期安政2年創業とされています。屋号のおごりは、五条建仁寺町という町名の略語「五建」で、外郎は、室町時代の外郎家が、現在の西洞院四条付近に居住し、その地を外郎町と呼んだことを合わせたとされています。
 京都では、6月30日に「水無月」という「ういろ」を食べて、「夏越しの祓」とする習慣があるそうです。


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ういろ餅-min

近江八幡 ういろ餅

創業は江戸末期文久2年(1863年)、砂糖問屋綿伍から暖簾分けでこの地で開いたそうです。(ホームページより)
米所近江八幡の米粉を使い、古くから「ういろ」「羊羹」が作られていたようです。
密度が高くずっしりとした食感ですね。


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羊羹の歴史

 さて、羊羹が歴史上表に出てくるのは、先ほどの南北朝から室町にかけての書物に「点心」と書かれたことからとされています。足利義満に外郎薬を献上する際、一緒に「羊羹」を献上したのではないかといわれ、それが京都のお菓子職人に広まっていったとされます。この時点で、外郎家から離れて発展していったと推測されます。
 甘さへの追求も、芋羊羹などの、甘藷、甘葛などの自然なものから、江戸時代に入ると、薩摩藩から黒砂糖が出回り、色も茶褐色が自然となったところで、小豆色のごとく、小豆餡の羊羹が出回ったと推測します。
 さらにこの頃、天草と呼ばれる寒天が出回り、デンプンを暖めて固める蒸し羊羹から、寒天を混ぜて固める練り羊羹へと変わっていきます。小豆餡自体は、室町時代にすでに広く出回っていましたが、そもそも砂糖が大変貴重であった時代。庶民のお菓子と呼べる物ではなく、献上品やお祝いの席での「御菓子」としての地位であったようです。

 東海道を歩いていて、「小豆餡」のお菓子が多く出回っています。元々は、黒砂糖も用いていたのが、明治以降白砂糖に変わっているようです。

 おいしい「小豆餡」をどうやって食べやすくするか。餅でくるめば「大福」。「上新粉」で包めば「白玉」。それを焼いて固めれば「きんつば」。寒天で固めれば「羊羹」。そんな「餡のお菓子」という分類で発展していったようですね。


丁稚羊羹-min

近江八幡 丁稚羊羹

 大阪や京に「でっち」にでた小僧さんが、帰省する際、「安い羊羹」として喜ばれたと言われています。丁稚で大成した「近江商人」の心が込められていますね。
 寒天が高級で入手しづらいので、米粉に小麦粉を混ぜて、「蒸し羊羹」とした事で、「安い」羊羹ができたとされています。



追分羊羹は?

 さて、静岡の清水追分の「追分羊羹」は、どんな位置づけなんでしょうか?

追分羊羹350-min

 原料は、米粉と、小豆餡で、蒸し固めた物ですので、私が勝手に決めている分類では「ういろう」だと思います。それは、固める手法が、米粉を蒸すという手法だからです。ただ、メインの食材が小豆餡と考えれば、「羊羹」とも考えられます。
 「ういろう」であれ、「羊羹」であれ、追分羊羹は決定的に違うところがあります。それは「固い」こと。
 固さというか、ぷるぷるとした食感を基準にすれば、一番柔らかくぷるぷるしたのが、「水羊羹」だとして、次点は「ういろう」。羊羹は比較的固いですね。追分羊羹はさらに固く、包丁で切るとき、それなりに力が要ります。

 発祥は江戸時代初期、徳川家光の時代、駿府府中の御用職の府川屋新助が、箱根路で病気療養中の明の僧侶を助けたことから、小豆による羹の製法を伝えられ多とされています。
おそらく、この僧侶は、小田原の外郎家に関係した者と想像できます。外郎家に伝わる「ういろう」が販売されるのは、明治になってからですが、すでに献上品や、慶弔には使われていました。面白いのは、小豆を煮込む製法ということで、外郎家に「羊羹」を作る技法があったこととなります。
 追分羊羹は、その後、参勤交代の大名や、将軍家への献上品などで好評を博したとなっています。砂糖が貴重であったので、高級御菓子であったことがうかがい知れます。黒砂糖の普及とともに庶民にも広がり、幕末では多くの庶民のお土産として重宝され、明治時代になり、徳川慶喜公もよく食べていたと逸話も残っています。羊羹にしてもやたら固いのは、蒸して固める際、水分を少なめとして、保存が利くようにしたのだと思われます。当初から「お土産」として開発されたと考えられるからです。京都のお茶菓子とは目的が違うからですね。

 この、米粉を使った、小豆餡の蒸し羊羹は、「丁稚羊羹」をはじめ、安い庶民のお菓子として、江戸時代末期に広まったようです。それ以前は、そもそも「砂糖」が高級品で入手困難であったことから、芋や葛粉のほのかな甘さで作られていたようです。

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名古屋の「ういろう」

 それでは、全国一の売り上げの、名古屋名物「ういろう」は、どうなんでしょう?

青柳ういろう350-min

青柳総本店は、明治12年創業で、尾張徳川家より「青柳」の称を受けたとされています。尾張地域でも江戸初期の頃から「ういろう」は作られていたようではあります。羊羹と並び、米粉による「ういろう」、「蒸し羊羹」は、江戸初期から江戸中期に全国に広まったようです。静岡の追分羊羹もほぼ同時期です。出所は同じであっても、地域によって発展の仕方が多少違うようです。名古屋の「ういろう」には小豆餡はありません。(最近、種々の味の一つとして追加されています)。製法は米粉を蒸して作るも、小豆餡か、米粉がメインかで、「羊羹」と「ういろう」と分けているようにも見えますね。
 いずれにせよ、青柳総本店が「ういろう」で有名になるのは、昭和6年に東海道本線名古屋駅のプラットホームで売るようになってからのこととなります。東海道本線が名古屋開通したのが明治22年で、大規模博覧会を明治43年と、名古屋が全国レベルの大都市へ成長していくのですが、その動きよりはちょっと出遅れているようです。全国お土産での不動の地位を築くのは、新幹線の車内販売以降で、米粉を使うのでもっちりとした食感があり、ビニール包装で保存が利くこともあり、大評判となったようです。

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とらやの羊羹

 羊羹といえば、「とらや」ですね。どこで繋がっているのか、見てみましょう

 とらやは、室町時代後期創業。御陽成天皇(1586~1611)御在位中、御所の御用を務めていたとなっています。明治維新とともに東京にも進出しましたが、元はといえば、今を以てして「京の御菓子店」ということです。とらやを代表する小倉羊羹「夜の梅」は、江戸中期元禄時代(1694年)に名前が残っていますが、「羊羹」としての記録は、江戸時代後期1819年で、1862年には原材料として、小豆、寒天と記録されているそうです。(とらやホームページより)
 明治以降の羊羹は、糖分が多く腐りにくいこともあり、非常食としても重宝で、軍の御用達となったようです。京都のお店は、御所御用菓子司として残り、お土産用の「とらや」は、東京赤坂に工場兼店舗を構え、首都東京の発展とともに発展し、全国の百貨店等でも買うことが出来る「全国区」のお菓子屋となっています。江戸のお土産と言うよりは「東京のお土産」としての地位を築いたようですね。
 歴史の流れから見れば、外郎家が、足利義満公に献上したとき製法が伝わった「羊羹」が、京都から東京へ進出し発展したという構図でありますね。

 「ういろう」と「羊羹」は、親が同じ兄弟のような関係で、そもそもは中国から伝来のお菓子が日本で独自に発展し、「和菓子」として伝えられてきたという「歴史」がわかりました。


  

 
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