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歴史・伝統(番外編)

静岡のお城の歴史

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 古くは、鎌倉時代に守護がおかれて、室町時代は南朝方、北朝方の戦の歴史の末、徳川時代へと移ってきました。
その過程で、お城(その類する施設)も多く造られ、いくつか今も見ることができます。
 週末は、お城巡りでもいかがですか?
速報!
駿府城天守台の下に、秀吉が築城を命じた幻の天守台が発見されました!

秀吉の幻の駿府城 勝手な想像図はこちら


室町時代初期のお城

戦国時代の静岡のお城600-min

・狩野城(内牧城・安倍城)
  狩野氏一族は、伊豆を中心とした氏族で、狩野貞長は、後醍醐天皇について京の宮中警護をしていたが、建武の新政を樹立とともにこの地に下向し、南朝方として駿河を治めようとします。一方、地元地頭入江春倫蒲原氏は、後醍醐天皇の笠置山挙兵に際し功績を認められ、入江荘の地頭職を保つことができた。その後、駿河守を任じられ、狩野貞長とともに内牧に内牧城を作ったとされています。1338年、今川範国内牧城の支城安倍城を攻撃、1344年には、興良親王、宗良親王を迎えたが、1351年、手越原の闘いで今川軍の勝利に伴い、入江駿河守清治(春倫)を久能山上に移封して、廃城となったようです。(諸説あります)
 その後、入江春倫は、足利尊氏に属し新田義宗との武蔵野合戦で戦死している。ちなみに、入江一族は、その後も足利尊氏に属し、駿河守を名乗るも、居城は高槻城に移っています。

  今川館は元々は藤枝市葉梨当たりにあったとされています。今川範政が、狩野氏を討ち取り、駿河を平定したことで、1411年頃、居城を今の駿府城に移したとされています。その後、応仁の乱を経て、今川氏親の代に最大の館になったとされています。

・賎機山城
  臨済寺が城の大手門で、賎機山の山頂に築かれました。安倍川を挟んだ対岸の山頂に、南朝方の安倍城があったからです。狩野氏を討ち取ったあとも、駿河の地を守る要所として存在し、1568年、武田軍の侵攻に落ち、また武田軍が逃げる際も、1582年に徳川方に落ち、廃城となりました。

・丸子城
  北城、南城とあり、今川氏が駿府に居住した頃に築かれた支城と言われています。今川義忠が戦死して、小鹿範満との家督相続争い逃れるため、龍王丸(今川氏親)が一時居城していたと言われています。1568年、武田軍駿河侵攻に伴い、武田軍の西の砦となり、1581年、武田軍は徳川軍に明け渡し退去した。1590年、徳川家康の関東移封に伴い廃城となりました。

・持船城(用宗城)
  今川氏の家臣一宮元実によって、築城されたとされ、駿河守護の重要な支城であったとされています。1568年頃、武田軍に下り、1579年には、徳川家康の駿河侵攻に一旦は徳川方に落ちるも、翌年、武田勝頼らによって奪い返し再建される。1582年、再度徳川家康に攻められ、城代朝比奈信置は久能山城に引き、廃城となりました。

・八幡山城
  今川範政によって築かれた、駿府今川館の支城であります。1476年、今川義忠の戦死に伴う跡目争いの際、小鹿派の関東管領扇谷定正に派遣された、太田道灌が布陣しました。その後、伊勢新九郎(北条早雲)によって小鹿範満自害の後、再び今川氏所領となります。その後、武田信玄侵攻により武田方に、さらに徳川家康侵攻で徳川方となり、徳川家康関東移封によって廃城となりました。

・小鹿館
  今川範政の子範頼は、小鹿の地に分地され小鹿姓を名乗ることとなります。久能から長沼への大谷街道の守りとして、有度山山麓に館を築きました。1476年、小鹿範満の時、今川義忠の戦士により、堀越公方足利政和の命を受けた、関東管領扇谷(上杉)定正らの援助もあり、龍王丸(氏親)の陣代として、府中今川館に入ります。ところが、龍王丸が八代今川家を次いでも、小鹿範満は府中今川館を占拠したままだったこともあり、伊勢新九郎(北条早雲)の応援を得た龍王丸は、小鹿一族と駿府のまちなかで合戦となり、府中今川館の小鹿範満は自害、小鹿館も焼失しました。

・久能山城
  もともとは、推古天皇の時代にお寺が建てられたと言われています。源頼朝の寄進を受けて、鎌倉時代の久能寺は、300もの禅坊が建てられ、荘厳であったと言われています。南北朝時代に寺院城郭として発展していきました。1568年、武田信玄がこの地が要所と聞き、久能寺を別の場所に移し、久能城を築きました。1582年、徳川家康の所領となり駿府城の支城となるも、徳川家康没後、遺言により、家康公を祀り「久能山東照宮」となりました。

・横山城
  今川氏が駿河国主となった際、臣下の興津氏によって築かれました。今川義元亡き後、武田信玄が駿河侵攻の折、落城するが、今川氏真北条氏政に援軍を頼み、由比薩埵峠以東を北条軍に抑えられた。急遽、横山城を改修し、穴山梅雪を置き兵を籠城させ、甲斐へ兵を引くのでありました。その後、徳川家康関東移封に伴い廃城となりました。

・江尻城
  1569年、武田信玄によって築かれました。今川義元亡き後、駿河に侵攻した武田信玄であるが、今川氏真北条氏政の援軍を得て、武田軍と対峙したことで、武田信玄は、久能山城とともに、急遽城郭を作り、海岸線の確保をしたと言われています。1575年、長篠の闘いで武田軍敗退後、武田氏族の穴山梅雪によって改修され、駿河国の拠点となりました。その後、徳川家康と和議を結び、徳川方に降りました。徳川家康が関東に移封されたあと、1601年に廃城となりました。

戦国時代以降のお城

  徳川家康が、五領主駿河遠江三河甲斐信濃)となった際、駿河に移り、初代駿府城を作ったとされています。この時の駿府城は、安倍川の水流を巧みに取り入れた外堀を有し、小天守を抱えた大天守閣を擁し、駿府城の基礎を作ったとされています。

  今回の大発見、北条を討ち取った後、徳川家康を江戸に移封した豊臣秀吉は、中村一氏に家康の駿府城を取り壊し、新たな駿府城を作らせたようです。金箔瓦が多数発掘されていることから、豊臣秀吉の権威を東日本に示すための拠点であったことが覗い知れます。

  関ヶ原の戦いで、天下を取った徳川家康は、幕府を徳川秀忠に譲り、自ら「大御所」を名乗り、駿府に入城。豊臣秀吉の駿府城を押さえ込んで、江戸城をしのぐ大天守を作り上げます。漆喰で塗り固められた5層7階の天守閣は、あまりにまぶしく、駿河湾のお魚が逃げてしまったとも言い伝えられています。この天下普請により、薩摩土手が築かれ恒久的な城下町が再整備され、今の静岡市の基礎となっています。

  大御所の駿府城は、城内の失火によって程なく焼失してしまいます。急遽、突貫工事で天守閣が再建されました。画図には、黒い駿府城が描かれていて、白い漆喰塗から漆黒の外装になったと思われます。


外部リンク
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駿府城跡天守台発掘調査現場内で発掘調査速報などを発信している「発掘情報館 きゃっしる」の別館(電子版)として、関連情報をいち早く知りたい方や、現場へ実際に来られない方に向けて、最新情報をこのページよりお届けします。

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※ このページは、各諸文献や言い伝え等を元に新たに書き下ろしております。元文献等も全てを網羅していませんので、記述、解釈に違いがあるかとは思います。一つの「説」「解釈」としてお楽しみください。