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歴史・伝統 徳川時代

 徳川時代
 徳川家康は、幼少の頃、今川義元の人質として静岡の臨齋寺にいたあと、元服し、岡崎(三河)を治めることとなった。今川義元上洛の折、前線の抑えとして大高城に駒を進めた。その時、今川義元本体は、織田信長に攻められ、主君を失うこととなる。そのまま、今川傘下を外れ、領主となるが、弱小故、織田信長につくこととなる。そして、居城を浜松に移し、駿河・遠江・三河を治めることとなる。このときから、明治維新まで、静岡は徳川宗家による直轄地(天領)として、安定した政治経済の中で伝統文化を深めていくこととなります。


  徳川家康
 徳川家康は、早々と北条と手を打ち、富士川までを所領とします。そして、浜松より、駿府へ居城を移すこととなります。旧今川家居城跡にさらに大きな居城を建てることで、今川家の時代の終焉を周りに見せつけたようでした。家康は焼け野原の駿府を着実に城下町へと発展させていくのですが、豊臣秀吉の、小田原征伐で先兵を務め、北条氏を滅亡させた後、当時、湿地と葦の原でしかなった江戸に封印されてしまうのであります。
戦国本能寺勢力図-min

 秀吉亡き後、家康は関ヶ原の戦いの功績で、1603年2月12日征夷大将軍の地位を授かり、江戸に幕府を開きます。ほどなく1605年4月16日、秀忠に家督を譲り駿府に隠居することとなります。ここから、真の徳川時代の「駿府」の歴史が始まります。外様の薩摩など全国各地から天下普請を行い、江戸城をしのぐ史上最大の天守閣を含む本丸御殿、二の丸御殿等を築城させました。また、薩摩土手と呼ばれる土手を作り、安倍川から守り城下町を作りました。この時、もともとの東海道(本通り)を変更し新しい東海道(新通り)を作りました。
 これは、西方から来た者が、安倍川の川越しを終え、衣を整え駿府に入場するときに、1本のまっすぐな新通りの先に光輝く天守閣。そしてその右側に天守より低い富士山を見ることとなります。これは、当時まだ徳川政権に対して不審を抱く西の外様大名や商人に対し、天下一の富士をも従える大御所様と、心理的に優位に立たせるためであったと言われています。静岡市の区画が東西南北ではなく傾いているのは、この時作られたものです。

 しかし完成直後の1607年12月、失火により焼失。1610年に3重の楼門が囲む5層7階の一回り小さなものへ再建されました。この間わずか2年半。相当な突貫工事であったことでしょう。その天守も家康亡き後、1635年消失。その後は再建されていません。
 1607年消失前の駿府城天守閣は、白くまた金色に輝き、駿河湾の魚が驚き、魚が採れなくなったと噂されるほどであった。焼失後は突貫工事で、漆喰を塗らない黒漆の木肌だけの壁でした。体調不良の続く家康の存命中にと、工期を短縮したとされています。


  駿府九十六ヶ町
 家康は、隠居とは言え、実質的には幕府をコントロールしていました。そのひとつに、「金座」があります。ここで、全国の貨幣の調整を行っていました。駿府が「」で、江戸が「」。今でこそ、銀座が経済の中心ですが、江戸時代は、ここ駿府が経済の中心でありました。
 家康が駿府町割を実施し、その地名が今も残っています。金座は、今は日本銀行静岡支店となっています。呉服問屋は呉服町。紺屋の町は紺屋町。両替商は両替町。その他、大鉾町は、材木を大鉾で切り出し、それを商うところが材木町。刃物を研げば研屋町。そんな職人衆、商い集を集め、町の区割りとしました。にぎやかだった駿府の城下町を思い浮かべることができるでしょう。


  ウィリアム・アダムス
 1600年4月29日、大分にポルトガル商船が漂着し、ウィリアムアダムスらポルトガル人イギリス人を臼杵藩が救助し保護しました。秀頼に指示を仰ぐが、イエズス会の宣教師らから、海賊である可能性が高いので全員処刑するようにという内容であった。そこで、当時五大老であった家康が、彼ら一行を大阪に呼び寄せ面会することとなります。海賊ではなく、イエズス会のカトリック教会と、イギリスを中心とするプロテスタント教会との対立を知り、彼らを江戸に呼び寄せることとなる。実に、関ヶ原の戦いの半年前の出来事である。
 家康は、彼から外交交渉の通訳や助言、西洋の技術などを学びました。その後、江戸に係留されていた彼らの外洋船が沈没するに当たり、アダムスに外洋帆船の製造を命じます。アダムスは、伊東に造船ドックを作り、80t級の大型外洋帆船を建造しました。
 そんな折、スペインの商船が千葉県沖で漂着し、その海難救助を行いました。彼らをスペインに送り届けようと、ウィリアムアダムスに外洋船の建造を命じ、伊東で2隻目となる大型外洋帆船120t級を建造しました。この船で、スペイン人をメキシコまで送り届けました。この功績で、ウィリアムアダムスは、旗本に取り上げられ名も「三浦按針」と名乗ることとなりました。
家康時計-min
 また家康もスペインのフェリペ2世より、お礼の品として「金の置時計」が贈られました。この「金の置時計」は家康亡き後、久能残東照宮に保管され、現在にいたります。最近ヨーロッパに渡り鑑定修復され、世界最古の現存する時計と認定され、また日本において、精巧な外観複製(レプリカ、中身はクォーツ)が限定発売され、話題となりました。
 家康亡きあとは、一転して鎖国体制となり、三浦按人も平戸に封印さてしまいました。


  山田長政
 また、1612年に、御朱印船で、長崎から台湾を経てタイ王国へ出国した男がいた。名を山田長政といい、静岡市の富厚里(ふごおり)に生まれ、沼津藩主に仕えた駕籠かき(今でいうタクシー?)をしていた。タイ王国に渡り日本人傭兵隊に加わり、日本人町の統領となっていった。スペイン艦隊からタイ国を守る際に功績を上げ、タイ王朝から信頼されるも、後継者問題を発端として、毒殺され、日本人町も焼き払われてしまったといいます。
 現在では、毎年、10月の初め、静岡市の中心街呉服町から宮ヶ崎にかけて「山田長政まつり」がおこなわれ、タイ国関係者も出席され、日本タイ友好親善活動の柱となっています。


  家康の死
 家康亡き後は、城主は基本的に江戸詰めとなり、城代が城を管理することとなった。一度、家光が駿府城に入城するも、恐れ多いと本丸以内には入らなかったとか。その後、宝永の地震、安政の地震で御殿は焼失、石垣はほとんどが崩落という、見るも無残な状態だったようです。明治維新の時、初めて公開された時は、中に狐や狸はおろか、熊が出たといわれるほどの廃墟であったと言われています。

 さて、家康の死に関しては諸説いろいろありますが、「経済」的な視点で見た説があります。
 茶屋四郎次郎という京都の豪商がいました。家康は彼からお金を借りて、関ヶ原や、大阪冬夏の陣を戦っています。さて、膨大な借金(今のお金に換算して一説には数十兆円とも)ができ、茶屋四朗次郎に頭が上がりません。そんな折、家康が一二支腸癌に侵されます。余命いくばくとなった時、家康や側近が謀を企てます。大阪夏の陣等で功績のあった武将を「鷹狩」に招待し、その席の接待役を茶屋四朗次郎に命じました。鷹狩とは、本来は鷹を使ってウサギなどの小動物を仕留める「狩り」であるが、その際、馬や人足をコントロールして、小動物を追いこむ動きが戦に似ており、家康は「鷹狩」こそ戦の教本と、実施していた。そして、戦があれば、その戦の功績を「鷹狩」の席で賞したのであります。そして、接待役とは、そこに集まる全ての武将をも支配下における、最下位層の商人にしてみれば、大変な名誉であります。天下統一をたたえる「鷹狩」の接待役となれば、今後、全国すべての大名と優位な取引が約束された様なものであります。歴史的な「鷹狩」は現藤枝市の「田中城」で行われた。茶屋四朗次郎は、考えられる最高のおもてなしをしたことでしょう。一つに、興津で採れる甘鯛が好物だった家康の為にわざわざ取り寄せ、天ぷらにして皆に食させたようです。さて、この油が腐っていたのか、甘鯛が腐っていたのか、家康は食当たりから帰らぬ人となったらしい。秀忠の逆鱗に触れ、茶屋四朗次郎は打ち首獄門、借金帳消しとなったそうです。実の死因は、すでに癌は全身に転移しており、藤枝くんだりまで鷹狩に行くことで、体力が消耗し、鯛が腐っていようが腐っていまいが、もう生きる体力はなかったようです。
 いやはや、「鳴かぬなら、鳴くまで待とうほととぎす」の用意周到さ。家康は、ただでは死なないという説です。


  その後の江戸時代
 家康の死後、遺言により、久能山に墓を建て、東照宮とした。この際、全国から、宮大工漆職人彫物師指物師金物職人などが呼び寄せられ、当時として最高の技術で作られました。駿府城築城、浅間神社の修復、そして、自身の御墓である東照宮建立が、当時の最高技術で作られ、そして、その職人たちがこの地にすみつき、駿河伝統工芸へと発展していくのであります。
 家康時代、駿府は経済の中心で、全国から「駿府詣で」が行われ、その富と権力でたびたび、駿河の豪商を作ってきました。駿府には、今川家から伝わる豪商伴野家、甲州から移住してきて今川、武田に仕えた松木家、大黒屋などがありました。
 伴野家は、戦争に使う鉄砲や鉄材を敵味方双方に商いできる特権を持ち、絹麻生地、布や両替商を営んでいました。その後、安倍川の新田開発をしますが、度重なる失敗で富を失い、没落します。名を伴野与左衛門といい、現在その後開発に成功し「与左衛門新田」と名前だけ残っています。
 松木家は今川氏真時代に甲州から移住し、今川、武田両家に仕え、蔵役、酒役、商役などに就き、また、武田からは朱印状を受け、一手に富を集約していました。紀伊国屋文左衛門は紀州の商人で松木家と共に、江戸上野の寛永寺の根本中堂建立の為の材木を、大井川上流の寸又地区から切り出し、江戸に送り莫大な富を築きました。豊富な富を浅間神社の廿日祭に奉納し、大いににぎわったという記録も残っているようです。その後、遠州三方ヶ原の開発に失敗し、やはり富を失っていきます。1700年ごろ、松木家の番頭に、渡邉伝八というものが就く。伊豆の松崎出身で、跡継ぎのいなくなった松木家を継承し、「伊豆屋」という屋号で商いを続けました。古着、質屋、綿、麻織物と両替商を取り扱い、呉服町の松木屋を継ぐことになりました。「伊豆屋伝八」通称「伊伝」は今も残っています。
 大黒屋は、ポルトガルからの生糸の独占販売権を持ち、呉服の総元締めとして、常に利益が入る構造となっていました。当時の豪商は、このような特権構造であり、時代とともにその権力が移り衰退していくようです。大黒屋も徐々に借財が増え、最後は火災に遭い没落していきました。しかし末裔は薬商として明治から昭和初期まで残っていたようです。
 安西の鷲津家は、広野の開発を行い、現在もその名が残っています。伝馬町の旅籠甲州屋は、家康亡き後も、参勤交代などもあり、繁栄しましたが、明治に変わり参勤交代廃止に伴い一気に宿泊客が減少し、それとともに、染物屋「甲州屋紺屋」を開き、生き残りをかけます。紺屋といえば、由比本陣前の「小雪紺屋」が有名である。由比小雪の実家とも言われ、莫大な富とはいかないが、それなりの財は稼いでいたようです。明治になり、安西の紺屋に生まれた、芹沢銈介は、その伝統の駿河和染に芸術性を取り入れ、伝統工芸の復興に尽くしました。そのベースは、この時期に発展していったのであります。

 家康の「大御所政治」によって潤った駿府。当時、江戸よりも人口が多かったという記録も残っているが、家康没と共に急速に冷え込み、豪商も厳しい運命にもまれることとなったようです。

 そんな中、武家や小人のアルバイトの様な副収入を家庭内手工業のような形がはやり出します。その中の一つが、駿河竹千筋細工。静岡はもとも良質な竹が育ち、竹細工が盛んであった。それまでの竹細工は、角ひごや、竹板を編んだりする手法でありましたが、この駿河竹千筋細工の特徴は、丸ひごを用います。細く均一な丸ひごを、均等に配置したり、微妙な曲線をつけて立体的にしたりと、実用品から造形品としての価値を生み出しました。
 竹ひごを造り組む者。その竹ひごに漆を塗る者。それぞれ、指物師漆職人などの技術が根付いていたことによります。


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※ このページは、各諸文献や言い伝え等を元に新たに書き下ろしております。元文献等も全てを網羅していませんので、記述、解釈に違いがあるかとは思います。一つの「説」「解釈」としてお楽しみください。