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歴史・伝統 明治維新以降



静岡鳥瞰図現代500-min

 明治維新前後
 さて、ここ静岡は、再度歴史の表舞台に出てきます。

 江戸時代末期、樺太、千島列島等は、蝦夷松前藩及び、高田屋嘉兵衛らによって調査し、国後島、択捉島間定期航路を開設し、漁場開拓を行っていた。1811年、国後島を測量していたロシア人ゴローニンを松前藩が逮捕監禁したことにより、ロシアと緊迫することとなった。そんな折、高田屋嘉兵衛らが、ロシアの1本マストの軍艦ディアナ号に拿捕され、カムチャッカへ連行されます。その折、持ち前の交渉能力を巧みに使い、ロシア人ゴローニンを開放する策を練り、1813年ディアナ号に乗って国後島へ帰還し、その後交渉の末、ゴローニンを釈放。ディアナ号によってロシアに帰国していった。ゴローニン事件である。


  プチャーチン
 そんなこともあり、ロシアは早急に江戸幕府と国境の画定を進めるべく、1853年にロシアの提督プチャーチンを長崎に派遣します。
 ほぼ同じころ、アメリカのペリー提督率いる東インド艦隊が4隻の軍艦で浦賀沖に来航。大砲を撃って脅し、帰って行きました。いわゆる黒船来航です。その旗艦サスケハナは、2,450tの蒸気船で14門の大砲を、随伴するミシシッピも1,692tの蒸気船、10門の大砲を積んでいました。この帆船ではない蒸気船に江戸を始め多くの日本人がドキモを抜かしたようです。
 その翌年、下田にて日米和親条約が締結されました。この時は、蒸気船旗艦はポーハタン号に変わっていましたが、やはり大型蒸気船(2,415t)でありました。これを知ったロシアは、同じく下田港に最新鋭の3本マストの大型軍艦ディアナ号を差し向けます。高田屋嘉兵衛が乗ったディアナ号と奇しくも名が同じであった。2,000t、大砲52門、488名が乗る大型軍艦で、ペリー艦隊の様に圧力をかける作戦に出たのであります。下田にて日露交渉を行っている1854年安政の大地震が起きその大津波が下田の町を襲います。港に停泊していたロシアの最新鋭軍艦ディアナ号は大破し、外洋航行が不能となりました。幕府はこの修復を命じ、西伊豆の戸田にて修復するため回送中、航行不能に陥り沈没します。戸田の住民はみんなでロシア人を助け保護します。幕府は、プチャーチンに洋式外洋帆船を作ることを許可し、戸田港にてヘダ号を建造し、1855年ヘダ号と複数の外洋船に分乗して、プチャーチンらは帰国します。


  おきち
 1857年アメリカの領事館が下田の玉泉寺におかれ、総領事ハリスが日米の外交の為着任します。しかし慣れない日本での生活の為、体調を崩し病に伏せってしまいます。その為、日本人看護婦に世話をするように求めたが、日本にはまだ看護婦という概念がなく、下田一の人気芸者、斎藤きちに身の回りの世話を命じました。当時は、まだ大多数の人が外国人に偏見を持ち、外国人に身を任せることなど人として恥とする風潮がありました。当初、お吉に対する同情の目が向けられましたが、やがて羽振りが良くなるお吉を見て、嫉妬と侮辱の目を向けるようになりました。その後、ハリスの容態も良くなり3カ月後にはもとの芸者に戻るも周囲の人からは冷たく扱われました。そして酒におぼれるようになり、晩年下田郊外の川に入水自殺をしてしまいます。その淵が「お吉が淵」として今も残っています。


  吉田松陰
 吉田松陰という武士がいた。攘夷開国派で知られ、1854年下田港に寄港したペリー提督の艦隊の旗艦ポーハタン号に小舟でこぎ出し乗船。密航を図るも断られ、下田奉行所に自主、その後牢獄死します。
 幕末から明治維新への扉は、静岡県の下田を中心に始まっていくのであります。


  山岡鉄舟
 山岡鉄舟なる武術に優れた武士がいました。北辰一刀流を学び、明治維新後、一刀正伝無刀流の開祖となります。江戸無血開城の為勝海舟の伝令として、駿府まで進軍してきた官軍総大将西郷隆盛と面会した男であります。
 第15代将軍徳川慶喜が大政を奉還し、その後薩摩と衝突します。薩摩側が天皇の御旗を授かり官軍となると、徳川慶喜をはじめとする旧幕軍は敗退します。鳥羽伏見の戦いです。
 その後、勢いを増した官軍は、江戸城開城、全国の藩の返上を求め軍を東に進めます。江戸の町を戦禍から守るべく、勝海舟が全力で旧幕府側を説得。そして使者を官軍総大将西郷隆盛に向かわせます。これが武術の優れた山岡鉄舟であった。旧幕側は、山岡鉄舟を裏切り者と思い、刺客を放ちます。薩埵峠(現静岡市清水区由比)に向かう途中、「この先に私設検問があり、道を塞がれている」ことを住民から知り、街道の茶店望嶽亭に身を潜め、潮が満ちるのを待ち、漁民にふんして漁船に乗り込み、江尻港(現清水港)に渡ります。そして、駿府宿伝馬町(現静岡市葵区伝馬町)松崎屋源兵衛宅で西郷隆盛と歴史的な改憲を果たすのであります。これで、江戸城無血開城が実現をします。その会見の場所は、度重なる再開発に呑まれ、伝馬町通り再開発ビルペガサートの前に碑が残っています。
 望嶽亭には、鉄舟が漁民に扮して去る時に置いていったとされる、フランス製の10連装拳銃が今も展示されています。この会見が実現しなかったら、江戸は焼き払われていたと考えると、望嶽亭による機転のある計らいが日本を変えたと言っても嘘ではないと思います。


  徳川慶喜
 さて、その十五代将軍徳川慶喜は、元は水戸藩出身であり、江戸小石川の藩邸で生まれ、幼少期は水戸で育ちます。一橋徳川家相続に絡み江戸にもどり、1847年徳川慶喜と名乗ります。後継者問題等が続き、また外国からの圧力もあり、日本が尊王攘夷に揺れる中、1866年15代将軍に任命され、翌年1867年大政を奉還し、ここに300年続いた江戸幕府の時代を終焉したのであります。
 その後、勝海舟の計らいで、江戸無血開城と共に、徳川慶喜の処遇が決められ、徳川荘家の家督を譲り、1868年7月に駿府に移封されることになります。翌1869年9月、戊辰戦争終結を受けて謹慎を解除されたが、しばらく駿府改め静岡に住むこととなる。静岡在住時は、政治を離れ、写真、狩猟、投網、謡曲など多彩な趣味に没頭した生活を送ります。旧幕臣の訪問を受けてもほとんど面会せず、共に静岡に移り住んだ旧家臣などの生活の困窮にも全く無関心であったようで、「貴人情けを知らず」と言われたようです。
 住居は現浮月楼を始め、いくつか転々とし、草深の時、泥棒に入られて警備の者を叱責しそのまま、1897年東京の巣鴨に移ります。その後、貴族院議員になり、政治の世界に復帰をします。1913年風邪をこじらせて、死去します。享年77歳。
 その間29年間、静岡に住み、しぞーか人は、写真を撮ったり、謡曲をする姿を見ており、「けいき様」と呼んでいました。


  依田勉三
 依田勉三というものが、ペリー来航、プチャーチン漂着に揺れる、伊豆松崎に生まれる。この伊豆松崎という場所は、嵐の際の風待ち港でもあり、比較的新しいものに目を向ける事が好きな人が多いのだろうか。これからは男も女も学業が重要であると、松崎町岩科地区に、日本で3番目に古いとされる小学校を建て、教育に熱心だった。山あいの集落では、お蚕さんを育て、絹糸生産が盛んとなり、積極的に輸出を行い財を貯めた一人に、依田家がある。依田家は、もと、上田の依田荘(現中丸子)出身の真田家の重臣。その依田一族の別の派で、講習武田家に仕えた武将と言われ、いずれも富士を経由して、伊豆松崎に身を隠し立身し、豪農となってた。その善右衛門の3男として生まれたのが、勉三である。時に、1853年、世間は黒舟来航、下田開港にわいたときであります。
 幼少のころから漢学者土屋三余らに漢学を学び、父亡き後家業を依田佐二平(兄)が継いぎます。これからは学問が大事だという亡き父の教えのまま、佐二平とともに、土屋三余がたてた、私塾「三余塾」に学びます。1972年、家業を継いだ兄佐二平の援助もあり、弁蔵は上京しワデル塾を経て、慶応義塾で学ぶことになる。ここで、福沢諭吉の影響が、北海道開拓へ思いを向けることになりました。翌年、佐二平は、地元松崎町大沢に大沢学舎(公立小学校)を建て、地元への教育活動を活発化させます。勉三は、体調を崩し、慶応義塾を2年で中退し、松崎に戻る。兄佐二平は、事業の功績もあり、さらに教育活動を広げ、下田に豆陽学校(現下田北高校)を設立し、その兄の全面的バックアップを得て、1881年(明治14年)いよいよ勉三は、北海道へ乗り込むのでありました。
 晩成社、大器晩成を夢み、福沢諭吉の「独立自尊」「実学」「自我作古」の精神に強く言影響を受け、新天地北海道を開拓し、理想郷を作ろうと決意し、兄を始め、地元財界からお金を融資してもらい、同士を集い自ら北海道に乗り込んでいきました。それまでの北海道開拓は、基本は、ロシア等の北方警備が主たる目的で、廃藩置県によって職を失った士族らが、「屯田兵」として入植していた。勉三は、北方警備だけではなく、広大な自然を利用した、農業、林業、水産業、それをベースにした工業をつくり、自立した経済圏を夢見るのでありました。

 独立自尊
 自他の尊厳を守り、何事も自分の判断、責任のもとに行うこと

 実学
 実証的に心理を解明し、問題を解決していく科学的な姿勢

 自我作古
 前人未到の新しい分野に挑戦し、たとえ困難や試練を受けていても、それに耐えて開拓に当たるべし

 勉三は、北海道開拓使が薦めた、石狩地方を蹴り、自ら十勝へと進みました。まさに、自我作古の精神でありました。しかしそれは、あまりにも無謀な挑戦でありました。当時の北海道は、内陸の道はなく、海路で移動していた。十勝帯広に行くに当たっては、函館から襟裳岬を回り、十勝川を遡っていく方法しかなかった。もちろん、地元民アイヌ族は、山を抜ける道を知っていたが、あまりに険しく、クマなどの害獣も多く、普通に移動するのでは、生存率が問題となるほどでありました。まずは、函館から胆振、根室、釧路、十勝、日高、苫小牧を海路調査し、札幌を経て帰郷しました。
 翌年、兄佐二平らとともに、晩成社を設立し、政府から十勝地方一万町を払い下げてもらう許可を取りに、札幌に渡り、その足で、帯広に向かい、仲間を帯広に残し、一旦帰郷しました。その翌年、明治16年(1983年)、移民の募集の結果、13戸27人が集い、函館一旦向かい、そこから、海路、陸路に分かれて帯広に向かうのでありました。

開拓のはじめは豚と一つ鍋

 入植者を待ち受けていたのは、野火や、イナゴの大群、害獣などに襲われ、作物はほとんど収穫できないまま、凍てつく冬を迎えました。十勝新得町狩り勝峠に向かう十国街道沿いに「ばった塚」がある。当時、空が真っ黒になるほどのばった(イナゴ)に覆われ、そして駆除された成虫幼虫卵。その数実に三千億匹と言われています。その死骸を集めて埋めた場所が塚のように盛り上がっていたと言い伝えられています。
 なぜ大量発生したかは定かではないが、急激な開墾と、農作物、そして天敵が少なかったなどの要因が重なり数年間は大災害をもたらしたそうです。そして、翌年もまた、農作物はほぼ収穫できず、帯広より南の大樹町に食肉目的の畜農を始めることとなります。羊、豚を飼育し、ハム作りを試み、農作物は馬鈴薯栽培の研究を始めました。しかし、いずれも好転せず、当初の移住民は3戸にまで減少しました。
 明治25年(1892年)ごろには小豆大豆なども収穫されるように、徐々に開墾の効果が出てきました。この年が、おそらく晩成社としても最大の繁栄であったようです。そして組織を合資会社とし、牛肉店、木工場、バター工場、缶詰工場などいろいろな産業に手を出すも、いずれも大成はしなかった。
 当時、食肉、特に牛肉とか、乳製品、バターは、栄養価が高く欧米での評価が高かかったが、日本ではまだ一般化できていませんでした。勉三の思いは20年先を進んでいたのかもしれません。
 その後、石狩平野を開拓した、雪印が、牛乳、乳製品、バターで、日本を代表する企業になったことを考えると、早すぎた発想だったと言えるのでしょうか。
 大正5年(1916年)帯広の牧場を手放し、晩成社は事実上活動を終えることになりました。
 昭和8年(1933年)勉三は、「晩成社には何も残らん。しかし、十勝には......」と残し他界しました。

 帯広の六花亭という洋菓子屋が、晩成社の輸出用バターかんづめの包装紙をそのまま使った「マルセイバターサンド」を商品化し、看板商品となっています。これは、晩成社解散の折り、建物の中にあった物を全て二束三文で売り払った際、六花亭が、印刷済の缶詰の包装紙の束や、マルセイ焼き印などを買い取った物であります。勉三の活動で帯広が豊かになったのに、晩成社の最後があまりにも無残であったため、なんとか残そうと手を差し向けたからだと言われています。六花亭では、「ひとつ鍋」というお菓子もあり、十勝、帯広の人たちには、依田勉三は語り継がれています。


  清水港開港
 静岡、清水を語るに、この人物は外すことができない。
 いわゆる「清水の次郎長」で有名な、山本長五郎であります。ここでは、若き日の事は割愛して、清水港開港について触れて解説していきましょう。

 そして明治の時代を経て、太平洋戦争へと突き進んでいきます。

そして今....



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※ このページは、各諸文献や言い伝え等を元に新たに書き下ろしております。元文献等も全てを網羅していませんので、記述、解釈に違いがあるかとは思います。一つの「説」「解釈」としてお楽しみください。