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歴史・伝統 鎌倉時代~今川時代

古静岡平野想像図街道入り500-min
古静岡平野(鎌倉末期頃)想像図
現在の標高、地名、古い神社仏閣伝承地、遺跡等を考察して、推測
赤点線日本武尊時代の古東海道
緑点線:江戸時代の東海道
緑線:昭和初期の街道(旧静岡市を除く)
赤点:古くから伝わる神社仏閣

 鎌倉時代
 平治の乱で都を追われた源頼朝が、伊豆韮山の蛭が小島に幽閉され、それを北条政子が世話をした事が、事の始まりでありました。
その頃、京都では平清盛の全盛を迎え、圧政を敷いた結果、平家一門にも亀裂が入るようになりました。関東一円(板東)にも旧来の平氏、源氏の末裔が入り乱れていたが、反平清盛という構図で板東平氏、新興勢力、源頼朝らが結束し、鎌倉に居城を構えることとなる。よく、平家から源氏への政権交代とも言われる鎌倉幕府でありますが、実は要職は板東平氏がそのほとんどの要職に就いていました。俗に言う坂東八平氏(三浦氏、土肥氏、秩父氏、千葉氏、上総氏、大庭氏、梶原氏、長尾氏)などである。そのほかにもいろいろな分派があります。
 秩父平氏(畑山、川越、葛西、江戸氏、小山田氏)
 房総平氏(上総氏、千葉氏、相馬氏)
 相模平氏(中村氏、土肥氏、三浦氏、鎌倉氏、長尾氏、大庭氏、梶原氏)
 武蔵平氏(熊谷氏 他)
 伊豆平氏(北条氏、長崎氏)
 今でも各地の地名に残り、また戦国時代に繋がる名字もあったりします。源頼朝を支えた北条氏も板東平氏であり、源家も3代で終演することから、実は平氏による実効支配であったともいえます。
 鎌倉幕府開府直後には、木曽源氏、甲州源氏等による援軍もあったが、源氏内部での紛争となり、結果的に「源氏」による政権は長く続かないこととなりました。各地の源氏は各地に散り、徐々に台頭していくのであります。

鎌倉初期守護配置-min

 源頼朝が、鎌倉に幕府を開いた頃は、平安時代の朝廷による全国の支配力が衰えていました。鎌倉幕府は、地方に「守護」「地頭」を設置し、領地を管理する方法をとりました。朝廷とは別に、寺社貴族等が勝手に治めていた「荘園」を解体し、「地頭」を設置。元々の源氏方の領地の他に、平氏からの没収地等を「守護」に治めさせました。とはいえ、鎌倉幕府がまだ全国を完全掌握していたわけでもなく、事実、頼朝自身が東北に軍をすすめたときもありました。
 鎌倉時代の終焉は、2度にわたる元寇であるとも言われています。それまでの守護・地頭支配は、国内の敵を打ち落として没収した領地を褒美として分け与える事が主流でありましたが、外国の「元」が攻め入ってきて、なんとか防戦した守護に対して、褒美となる物がなかったから守護らに不満が蓄積されていったとも言われています。
 各地に散った源氏の一部の足利氏が、兵を挙げたのが、室町幕府開府に続く動きとなります。

 今川時代(室町時代)
 今川氏は、足利氏、吉良氏と同じ源義家(三河源氏)であり、足利氏は1221年の承久の乱の功績により、鎌倉幕府より三河と上総の国の守護職を拝領となっていました。その後、上総の国は「足利一門」、三河の国は、足利氏からわかれた「吉良氏」と分かれて納めることとなりました。吉良長氏の次男国氏が、今川荘(今の愛知県西尾市付近)で、地名をとり「今川」と名乗ったことが、今川家の興りとされています。今川国氏の五男範国が家督を継ぎ、わずか3村の領主となったのが、最初の今川氏である。
南北朝守護配置-min


  今川範国
 1333年5月、足利尊氏が、京都六波羅を落とし、新田義貞が鎌倉幕府を打ち、鎌倉時代は終焉しました。その後、後醍醐天皇が天皇制を敷くも二転三転し安定しませんでした。足利尊氏も実弟直義との諍いが、後の南北朝の戦いの発端でもありました。
 足利尊氏の弟直義は、鎌倉を逃れ駿府手越原に陣を張ったが、今川範国は、足利尊氏軍とともに戦い、小夜の中山の合戦で勝利をした。この時、範国が敵将の首を獲ったことで大勝利となった。その後、足利尊氏は、後醍醐天皇と袂を分かち、新田義貞に追われる身となった。そして、再度手越原での戦いとなる。ここで敗れた足利尊氏軍の退路を守り、その後、尊氏軍の戦局を有利にするなどの功績により、遠江、駿河両国の守護に任じられるのであります。この時の今川氏の守り神であったのが、浅間神社でありました。
南北朝静岡勢力図-min
 とはいえ、駿河の国は、南朝方が有位であり、範国は小競り合いの連続でありました。そんなこともあり、1351年、自身は室町幕府の要職につき上洛し、家督を息子範氏に譲るのでありました。


  今川範氏
 南北朝の争いもいよいよ大詰め、両軍が戦う事となり、足利尊氏と共に、今川範氏も出撃し、劣勢だった尊氏軍を助け、手越原の戦いで勝利、薩埵峠の戦いで、尊氏軍を勝利へと結び付けた。このことにより、範氏は、遠江、駿河の守護として認められるのでありました。
 範氏は、駿河の南朝方、狩野貞永を落とし、駿河の平定をなすのであります。

 その後、居城を駿府に移します。今川は代々、守護でありながら、京都には出向かず、領主統治に力を入れた、ちょうど、荘園制が崩壊していくこともあり、領地の管理を行う守護職ではなく、守護大名へと進化していきました。そんなおり、1416年、鎌倉公方足利持氏が、関東管領上杉禅秀に襲撃され駿府に逃げ込んだ。幕府より上杉討伐を4代目今川範政に命じ、見事自刃に追い込んだ。この一件がもとで、鎌倉への抑えとして、今川を重要視することとなる。
戦国初期勢力図-min


  応仁の乱
 1467年、京都で応仁の乱がおこると、今川義忠は上洛し、東軍に参加。その際、東軍にいた伊勢貞親と面会。この伊勢貞親は、当時室町幕府の要職申次衆に就く備中守伊勢守の伊勢氏で、その縁で、元室町幕府政所執事、現申次衆伊勢盛定が娘、北川殿と結婚した。伊勢貞親は、この盛定の正室と兄弟であった。そして弟貞藤が西軍に分派し、仲たがいを起こしている。なぜ今川義忠伊勢貞親に付いたかと言えば、1466年、伊勢貞藤が、遠江を今川から没収したことに始まる。これに反発した今川義忠と政所執筆に就いた伊勢貞親が手を組んだことになる。応仁の乱に繋がるいろいろないざこざが、ここにあった。今川家内も紛争があり、義忠の従弟小鹿範満がたびたびいざこざを起こしていた。裏には、8代将軍足利義政にすり寄る斯波義廉らの謀が絡んでいた。室町幕府の関東政策として、上杉、堀越、斯波が企てていたとされる。
 その後、1476年、今川義忠が不慮の死で、家督相続の内紛に付け入り、関東管領扇谷上杉、伊豆堀越公方らが駿府に介入し、それぞれ扇谷から家臣太田道灌、堀越から執事上杉政憲とが兵を出した。扇谷家宰太田道灌小鹿範満と縁戚で、東軍であった伊勢氏と今川氏に不利になる。ここに調停を買って出るのが、後北条、後の北条早雲となる伊勢新九郎盛時であった。今川義忠が夫人北川殿の兄であった。そして、今川義忠が嫡男、今川氏親が元服し、駿河の国の両国政策を発展させていくのであります。


  今川氏親
 氏親は、伊勢新九郎盛時の援助もあり、西方は遠江を平定し、東三河まで進出。東は武蔵まで兵を進めていました。氏親伊豆堀越公方の内紛に乗じ、伊勢新九郎盛時堀越公方上杉家を落とし、韮山に城を築かせ伊豆を平定し、山内上杉家を封じるため、扇谷上杉定正伊勢新九郎盛時を小田原に招き入れます。扇谷定正、南総里見八犬伝に登場の人物ですね。まさに戦国時代。同じ一族で内紛が絶えなかったです。その扇谷上杉家も、三浦半島三崎城の三浦氏、小田原城の大森氏の後継者にまつわる内紛でごたごたしている時、要の上杉定正が落馬により死去。この期を乗じて伊勢新九郎盛時が北条(後北条)を名乗り北条早雲と改名し、南関東を奪い取り、戦国大名となっていった。
戦国中期勢力図-min
 応仁の乱をきっかけに、貴族や大工、文化工芸職人等が京を逃れ、各地に移り住むのでありますが、今川家もその多くを受け入れました。また、安倍金山の発見もあり、今川家が名実ともに発展し、西の大内東の今川といわれるまでに至っていました。今川氏親時代、遠江、駿河、伊豆を治め、戦国大名今川氏となっていった。すでに幕府に統制する能力がなく、地方では所領の租税を徴収し独自の政策を行う戦国大名の時代となっていった。


  今川義元
 1536年、氏親の長男、次男は謎の死を遂げ、五男で仏門に入った芳菊丸を呼び寄せ、今川義元として家督を継いだ。今川義元には、優秀な軍氏雪舟がいて、不安定だった今川家を統一し力をつけていった。
 三河吉良氏は、三河を平定する能力を失い、突如生まれてきた松平家に所領を奪われる。しかし、お隣守護から繋がる織田家も内紛による内紛、周辺ではまさに下剋上の斎藤道三などが成り上がる。
 その尾張、美濃を抑えたのが織田信長である。今川義元は、東三河今川家を擁する松平家と結び、松平家嫡男竹千代、後の徳川家康を人質として駿府に幽閉するのであります。東に今川、西に織田。大国に挟まれた弱小松平家は、なすすべも無かったと思います。
戦国桶狭間勢力図-min
 今川義元は、北の武田信玄と、東の北条氏康と三国同盟を結び、西に兵を進めます。その際、徳川家康は先兵隊を務めて、織田信長と対峙します。しかしながら、今川義元は桶狭間の戦いで打ちとられ、その後、一気に滅亡へ進むのであります。一説には、今川義元は、馬にも乗れないぐらいに太っていたとか言い伝えられますが、実際のところは、官位から馬ではなく、御輿で移動することが常であり、それが格式であった。しかし、今川義元は、当時1番の財力と勢力を持っていたとも言われますが、ここで織田軍に攻められずとも、いずれ戦国の世から落ちて行ったであろうと考えます。それは、刻々と変わる時代の動きについていけなかった事。既に下剋上が常識化している中で、過去の常識や礼儀作法では、すでに収まりができなかったことの象徴だと感じます。

 戦国の世の秩序がいつの時代においても良き例とは思いませんが、時代が大きく変わる時、時代の先読みというか、古きを変えるという挑戦ができなければ、没するという例であると思います。もちろん、紆余曲折の末、徳川家光の時代になって初めて、統制という秩序が再現されていくのだと思います。その家光とて家康秀忠を否定したうえで、新たな秩序を制定していったのであり、単に引き継ぐだけでは、続くことはできない。歴史はまさにそれを教えてくれていると、思います。

 武田時代

戦国今川没勢力図-min
 今川、武田、北条の三国同盟も、今川亡き後、不安定となる。その中で西に兵をすすめたのが、武田信玄であった。武田勢は、甲斐から一気に駿府に兵を進め、駿府を焼き払い、統治下においた。対する徳川家康も、旧今川家と組み、高天神城を挟み一進一退となる。家康は、東を武田勢と対峙している際、なんと、北側より秋葉海道沿いに南下してきた武田信玄本体と、三方ヶ原で戦う事となります。なんとか地の利で逃げ切るも、家康はこの時の敗戦を絵に印し、生涯の反省としたそうです。
 武田信玄は、奥三河の野田城で不慮の死を遂げることとなり、武田軍は一気に兵を引くこととなりました。その後、徳川家康織田信長同盟軍により、武田軍は長篠の戦いに敗れ、滅亡へと走って行きました。駿府を逃げる際、武田軍は再度火を放ち、駿府はまた焼きだされてしまいました。

静岡鳥瞰図中世500-min



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※ このページは、各諸文献や言い伝え等を元に新たに書き下ろしております。元文献等も全てを網羅していませんので、記述、解釈に違いがあるかとは思います。一つの「説」「解釈」としてお楽しみください。