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今こそ合奏!


中学校の部活時間短縮

 「中学校での部活動時間短縮」が話題となりました。きっかけは、「義務教育の公立中学校での教師の過労対策として取り上げられた課題」でありました。中学校では、小学校のそれまでの座学中心の教育とは別に、延び盛る発育に合わせた「心技体」全体の成長を促す目的で、「部活動」という学内活動ではあるものの教育講座とは別のカリキュラムを実施していると思います。
 問題は、高校の教師はその教育科目の専門家として養成されてきますが、中学校の教師は専門科目だけではない、広い子供教育という知識経験を求められています。特に小学校教師は、クラス担任がほぼ全ての教科を教えるという事を実施してる事が多いと思われます。高校の専門教育と、小学校の担任による教育とのちょうど中間点が、中学校教師に求められている事だと思います。
 その中に於いて、最近では減ってきてはいますが、全員の部活加入を強制していた時代があります。「運動部、文化部、いずれかに属さなければならない。」そして、その先に、全ての部活動に「顧問」を教師から出さなければならないとなっています。高校では、「顧問」とは別に「講師」を雇用して、講師による部活動指導を行っている学校が多い中、義務教育、公立中学校では、あくまで教師の中だけでやるという事が重んじられてきていたと思います。

 ここに、「2つの不幸」が生まれていました。それは、中学校とはいえ、部活動も専門的な知識経験が重要となってきている中で、全ての教師が部活動の顧問をやらなければならないので、たまたま人事異動等で経験のある顧問がいなくなった部活に於いて、全く経験の無い部活の指導をしなければならない先生が発生するケースが多く出てきました。教師の人事評価と異動に関して部活動が重要視されていないこともあるかと思います。「サッカーの経験が無い先生が、サッカー部の顧問をやらざるを得ない」そんなケースが往々にしてありました。
 「2つの不幸」とは、「分からない部活の顧問をやる先生」と、「その先生に指導される子供達」です。これが、それまで、前任の顧問がその部活の素晴らしい指導者で、レベルも周囲を圧倒するような「名門」と言われるような場合、そのあとを任される顧問も、それを目指して入ってきた部活の生徒の落胆も、「不幸」と言わざるを得ないでしょう。それが、義務教育で、学区制ならなおさらです。その為に越境入学したり、住所変更、引っ越してまでめざしている子供がいる事もあります。

 ここに追い打ちをかけてきたのが、教師の時間外労働の圧縮という課題です。通常の教育が細かな部分まで求められるようになってきたこともあり、ただでさえ明日の授業の準備等で、時間外労働が発生している状況で、部活動の時間が足かせになっていました。部活動は学校にもよりますが、「時間外拘束」であっても「時間外労働」ではないという解釈が横行し、先生方は、プライベートな時間すらろくに取れない「過労状況」でありました。

 これを改善しようとしたのが、「部活動時間短縮」という方法です。

 当初は、運動部が対象でした。これは、「過激になり続ける運動部の練習時間延長が、子供達の成長に悪い影響を与えているのではないか」という考え方を尊重し、この「部活動時間短縮」への突破口としたからです。そして、「平日3日間で、1日2時間まで、日曜は部活禁止、土曜日は3時間まで」とガイドラインが作られたことが発端です。
 これらの時間は、主に、野球部、サッカー部を対象として、発育と過労を専門家と協議して作られたと言われています。

 ところが、これが、文化部に波及します。そしてやり玉に挙がったのが、「吹奏楽部」です。
 もともと、吹奏楽部は、文化部の中の体育会系などと呼ばれ、部活動時間が長い代表格でありました。そして、このガイドラインをそのまま当てはめるとしたのです。問題は、ここです。

 いくら、吹奏楽部の練習が長いと言っても、野球部やサッカー部の様に、ずっと走っているわけではなく、身体の発育に影響を与えるような過大な体力を使っているのではありません。それどころか、楽器というものは、準備してから「」が出るようになるのに、ある程度時間が必要です。楽器自体が、熱や湿り気に順応する時間もあるし、演奏者の唇などの身体的なことや、呼吸等が整うまでのいわば準備期間が、練習度合いによりますが、1時間から1時間半は、かかるものです。
 仮に、2時間としたら、準備して「」が出るようになったら片付けとなります。これでは、まともな「練習」すらできないです。つまり、「」が先にありきで、ガイドラインの見直しもないまま施行されました。

 そんな折、学校教育そのものを見直そうという流れで、「集団より個性を」という考え方が叫ばれているようです。その一環として、この吹奏楽部がまたやり玉に挙がっています。「みんなで心を一つにして、同じ音を出そう」と、吹奏楽部でよく言われますが、これが「個性を潰している」と言い出す先生が出てきています。「心を一つにする」という考え方が、「時代遅れだ」と。そして、「吹奏楽部の合奏という考えは、個性を潰している」と。
 誤解を通り越して、感情的になっているかと思えるようなことを、公的に話す事態にまでなってきています。

 そんな状況で、コロナウィルスの蔓延です。
 吹奏楽の管楽器は、唾をまき散らしている、とか、集団で活動するので、活動自体が「」で、新しい生活の仕方にそぐわない、とか。

 私は、学校教育に関して何か意見を書くつもりはありません。全く専門外ですし、よく分からないからです。でも、こと、吹奏楽部に対しての指導や制限等の説明を見たときに、多くの誤解がここにはあり、それは、単なる「誤解」の域を超えた「音楽不要論」にまで尾を引く大きな流れを感じて、危惧しております。


吹奏楽の風当たり

 そして、なんで、吹奏楽部に対する「風当たり」が強いか、考えてみました。
 これが、クラッシック演奏とか、合唱とかでは、ここまで風が強くありません。「吹奏楽」だからです。
 で、ここにいくつかの理由を感じました。

 1)吹奏楽の「ド」が、他の音楽で使う「ド」と違うこと。
 2)誰もが吹いて、同じ「音」が出るものではない。
 3)一人で演奏しても面白くない。多くの人で「合奏」しなければならない。
 4)音が大きい、楽器が高額、簡単に演奏出来ない、楽器の輸送にお金がかかる
などなど

 こんな点が、吹奏楽が嫌われる点かと思います。

トランペッターの休日600-min

 1)の、吹奏楽の基本的な音が「ベー」とよばれる「シの♭」で、一般的な「」よりも一つ低いこと。
 これは、「なぜか」という説明ができないまま、「なんか気持ち悪い音」と思われている、意外と大きな問題です。
 サウンド・オブ・ミュージックの「ドレミの歌」は、誰でも知っている歌で、「ドーはドーナツのドー。レーはレモンのレー♪」とすぐ口ずさめますよね。よほどの音楽嫌いでも、これは知っています。
 問題は、中学校レベルの吹奏楽部でこれを演奏すると、この音程にならないのです。1音低い音で演奏されます。それは、吹奏楽の管楽器の多くが、「ベー」と呼ばれる音を基本としているからです。管楽器で、普通に「ドレミファソラシド」と吹くと、出ている音は、「シ♭ドレミ♭ファソラシ♭」と聞こえています。これで伴奏をして「さぁ一緒に歌いましょう」とやると、歌えなくなります。皆さんに、「ドレミファソラシド」と聞こえるように演奏するには、「レミファ♯ソラシド♯レ」と演奏しなければなりません。
 ここの意味が分かるようになるのに、吹奏楽部の子達でも、1,2年かかります。一般の人には、全く理解できない点です。だから、「吹奏楽の音ってなんか気持ちわるい」に繋がるのです。

 2)誰でも同じ音が出ない。そもそも、金管楽器にしても木管楽器にしても、普通にマウスピースを口にして息を吹いても「」は出ません。コツが要ります。
 仮にこのコツを覚えて「ぶぉぉぉ」と音が出ても、これを音階「ドレミファソラシド」とするのに、指を動かしたりで、練習が要ります。
 そして、自分自身でも今吹いたばかりの同じ音階が吹けません。わずかな唇の格好、楽器の持つ位置、呼吸の乱れ、そんなことが重なると、音がずれます。これは逆に言えば、それだけ音に自由度があり、どんな音でも演奏出来るという事の裏付けですが、初心者には、ここが挫折のポイントです。

 3)管楽器というのは、和音が吹けません。「和音」とは、「ドミソ」「ドファラ」「シレソ」「ドミソ」と3つの音を同時に出すと「綺麗にハモる」、そういう音です。ピアノは、指の数だけ音を重ねられます。弦楽器(バイオリンなど)は、弓が当たる2音まで同時に出せます。でも、管楽器は1つだけです。そのため、先ほどの和音のメロディーを吹く場合は、3人同じ楽器を吹く人が必要です。一人一人が「ド、ド、シ、ド」、「ミ、ファ、レ、ミ」「ソ、ラ、ソ、ソ」と、それぞれの分担があって、全体で、「ドミソ」「ドファラ」「シレソ」「ドミソ」と聞こえます。
 これが「合奏」という演奏法で、みんなが合わさってメロディーになるという事です。それに似た環境では、「主旋律と伴奏」という演奏法もあり、広い意味で、こちらも「合奏」です。
 で、先述の和音を演奏すると、「ド、ド、シ、ド」と演奏しても面白くないですよね。合わさってはじめてメロディーになる。
 また、「主旋律と伴奏」も、主旋律を演奏するヒトは気持ちいいが、伴奏しているヒトは、面白くないです。「ドーレミード、ミードーミー、レーミファファミレファー....」と吹く人は気持ちが良いけど、その裏で、「ドーミーミードー、レーファーファー....」って吹いても、面白くないですよね。
 みんなが「ソロ吹きたい」というのは、当たり前ですね。

 ここが「個性を潰している」と言われる由縁だと感じました。

 4)楽器が高いとか、大きな音で迷惑とか、「吹奏楽をやると頭が馬鹿になる」とまで言われるのは、まぁ、「その人」の問題かと思います。

トロンボーン3重奏600-min


合奏という考え方

 ここでは、多くのヒトが間違って解釈をしている「合奏」という考え方、そして、実はこれからの時代、この「合奏」という考え方が重要だという事を解説していきます。

 吹奏楽部のキャッチフレーズに「みんなで心を合わせて」とか、よく使います。「みんなで同じ音を出そう」という意味合いで使っています。このあたりが、誤解を生むキーワードと思います。
 先ほど説明したように、管楽器は同じ音が出しにくいです。その為、もちろん、キーを間違えるとか、吹く息量を間違えるなんて初歩の話はともかく、できるだけ、チューナーを使って正しい音「〇〇ヘルツ」という音を出せるように練習をします。ここは説明の前提条件で、そもそも、この段階ができなければ、次の話にはなりません。野球で言うところの、「自分でボールを壁に投げて採れるか」の段階ですね。

 管楽器はここから先があります。仮に、3人がチューナーで全く正しい「」を出したとして、「良い音」には聴こえないのです。そこには、チューナーの測定するマイクの位置や、3人の立ち位置の問題などが細かく関与します。音とは、空気の振動であり、そのお互いの「」の共振によって響きを出しているという「音の理論」です。一度出た「」は、周囲の壁や障害物に当たって反射したり吸収したり、別の音と共振したり。それらが混ざって耳に飛んできて「」を感じるのです。また、音には方向性があり、前に進んでいく音と、後ろに進んでいく音では、音色に微妙な差が生まれます。これが、「ドップラー効果」とも言いますね。

 さて、まず、この話はその微妙な音のズレを感じる「」が育たないと話が進みません。つまり演奏する側だけで無く、聴く側にもそれなりの技術がいるのです。そして、この微妙な音のズレを調整して「同じ音」が出ると、周波数の波が共振を起こし、別の音が聞こえるようになります。これを「倍音」と言います。
 多くの音の「響き」はこの「倍音」でできています。これが無いと、スカスカの音になります。そうですね、初期の頃のコンピューターゲームのサウンドがその例でしょう。あれは、8音のデジタル音源を合わせて「」にしています。正確な周波数ですが、お互いの音が共振していません。その為倍音が無く、薄っぺらい音に聞こえるのです。


音の共振・倍音

静かな池に石を落とすと、波紋が広がります。
いくつか同時に落とすと、波紋が重なります。
共振-min

このとき、波紋が多く重なったところに、高い波が発生します。
これが「共振」です。

下の図は、2つの異なる周波数を重ねたときの合わせた波です。
所々に大きな波がありますね。

波の共振600-min

さて、これを元の周波数、2倍の周波数、4倍の周波数で重ねてみると、赤い矢印に大きな波が発生していますね。
これが「倍音」です。
これは、2倍の音を重ねると、4倍の周波数の音が出る。
もしくは、2倍と4倍の音を重ねると、元の周波数の音が出る。
という、倍音の例です。

共振倍音600-min



 ピアノは、誰が弾いても「倍音」が出ます。それは、隣同士に弦が張られ、振動が伝わる構造になっているからです。管楽器は、楽器が金属でできていれば、共振が起こりそうですが、手で触っている時点で、わずかに起こっているであろう共振を吸収しています。そのため、自然発生的な響きはわずかです。そのため、一人で管楽器を吹いても、さほど深い響きにはならないのです。ところが、同じ楽器が3本もたち、みごとに同じ音を奏でると、お互いの音が共振を起こし、出していないはずの音が聞こえてきます。例として、「ドーーー」とロングトーンで出していると、下の「」「上のソ」「上の上のミ」の音が聞こえたりします。静寂な教室などでないと聞こえない、小さな音ですが。これが「倍音」です。
 この現象は、わざとロングトーンをする事で、その「倍音」を感じやすくした実験ですが、実際は、これが演奏の中に入ることで、音の重なりが「深い響き」となり、吹奏楽特有の「身体に響く演奏」になるのです。

サックス四重奏600-min

 大きな音で「プカッ、プカッ、ドンドン」と演奏しても、身体が響きますが、これは単に大きな音の振動で揺れているだけです。そうではなくて、仮に蚊の鳴くような小さな「ピアニッシッシモ」であっても、響きを感じます。それが「共振」であり、「倍音」が聞こえている状態です。
 おそらく、多くの方が、「鳥肌が立つ」とか、「涙が出てくる」といった身体の反応に気がつきます。この「共振」は、単に「」だけで聞こえるものではなく、エネルギーはかなり強く、体中の神経に直接感じさせているのです。耳で聞こえるだけが「」じゃないと言うことですね。

 これが、本当の意味での「合奏」の真髄です。

 「同じ心で....」というのは、みんなが違う事を目標としていたら、力が分散しちゃうので、同じ方向(目標)でやろう、という意味です。これと「合奏の意味」と似ているのですが、違う事を言っているのです。

 目標という意味では、例えば、演奏会をやろうと企画したとき、ある人は、「クラッシック音楽でやりたい」、またある人は「ジャズ演奏」でやりたいと言っても、両方はできない。同じステージで、片やクラッシックを演奏して、その横でジャズを演奏しても上手く合わないし、聴く方も疲れます。だから、ここは「クラッシックで」と統一しましょう。ということですね。
 確かにこれでは、「ジャズを演奏したい」というヒトの気持ちは潰されます。ある意味、個性を潰すといわれても、あながち間違いでは無いですね。

 もっとも、これを高いレベルで実現しちゃった音楽家がいます。ガーシュウィンが「ラプソディー・イン・ブルー」という曲で、ジャズのリズムでクラッシックを演奏し、ピアノが、ジャズピアノに変調していく。冒頭のクラリネットがトロンボーンのように無段階の音階を「ブヨォォン」と吹いて聴衆を引きつけます。まさに、個性の塊ですね。

クラリネット七重奏900-min

 吹奏楽でいう「個性」は楽器そのものです。全員で、「クラリネットだけで演奏しよう」とすれば、確かに「個性」を潰しています。時に、そういう演奏もあるかも知れませんが。
 トランペットはどうしてもトランペットだし、クラリネットはクラリネットの音しかだ出ません。まぁ、この2種は非常に似た音色ですが。これが、ピッコロだと、誰もマネできないし、トロンボーンで、「ぼよよーん」と吹くのは、他の楽器じゃできないです。もちろん、演奏するヒトの癖もあり、「あっ、この音、〇〇さんの演奏だ」と分かるほど特徴があるものです。「個性を潰して合奏せよ」って言う方がむしろ難しいです。みんなで様々な楽器で同じメロディーを吹くという演奏方法「ユニゾン」であれば、「個性」もほとんど出てきませんが、あえて、そのなかで楽器の特徴を面白く演奏出来るのが、「ボレロ」なんて曲もありますね。
 楽曲の作り方によって、たくさんいるトランペットが、みんなで「ユニゾン」で全く同じ音を出してみたり、1st. 2nd. に別れて主旋律と副旋律を出してみたり、ソロと伴奏に別れたり、わざとバラバラな音を吹いたりと。そういう変化を付けて曲を楽しく仕上げていく。これが「合奏」です。
 確かに、一人ではできないですね。多くの人が同じ時間、同じ事で拘束されないと実現できません。これが、「個性を潰す」という人もいます。それは確かに言えるけど、それでは吹奏楽そのものが成り立ちません。でも、全員に「吹奏楽」を強要しているのではなく、それを「やりたい」という人達で集まっている自由意志なので、「個性を潰す強要」ではないと思います。

 ある、浜松の全日本コンクール常連の強豪校の演奏を聴きました。曲は、団伊久間の「祝典行進曲」でした。この曲は、前天皇陛下即位の時に演奏された曲で、吹奏楽用にアレンジされたものでした。最初、クラリネットパートが、「同じ音」で演奏しはじめ、「なるほど、パートソロね」と感じさせました。でもよく見ると一番最前列に、向かって左側から、エスクラリネット、B-クラリネット、アルトクラリネットと7,8人が並んでいて、まるで1人で演奏しているかのような「」でした。「あれ、ソロ演奏?」と思ってよく見ると、全員、同じ身体の揺らしかたで、同じ指回し。なるほど、全く一人の演奏で、廻りのヒトは「エアー」と呼ばれるカッコだけ演奏かと思うような「一つの音」でした。ところが、それを確認したと同時に、鳥肌が立ちました。その列右側に、アルトサックス、テナーサックスが何人か並んでいたのですが、同じ身体の動き、指の動きをしています。つまり、クラリネットからサックスまで、みんなで「同じ音」を吹いていたのです。しかも、横軸の距離によるドップラー効果という微妙な時間や音程のズレを考慮して、それをも合わせる演奏をしているのです。だから、聴いている方は、1人で演奏しているかのように聞こえるのです。あとで聴いたところ、「音色を合わせる」事にものすごく練習したとのこと。
 ある意味、これが本当の「一つの音」で、各楽器の個性を潰す演奏法なのかも知れません。それはそれでものすごい練習と技術の向上があってこそできる「」です。
 いま、「心を一つにする合奏は、時代遅れ」と簡単に吐き捨てるレベルの話ではもはやありません。あまりに、先述の考え方自体が、吹奏楽を知らなすぎるレベルの発言であると言わざるを得ません。

木管五重奏1200-min

 合奏という考え方は、それぞれの「個性」が、個々の技術力、表現力を高めた上で、それぞれを高いレベルで結合させ、お互いを強調し合ってその上に音を響かせていく、そういう演奏法であります。フルートはフルートの音色で、ピッコロはピッコロの音色で、チューバはチューバの音色で、一つの楽曲を作り上げていく。時として、ソロと伴奏になって、別の楽器の個性を思い切り強調してみたり、ユニゾンにかわりボリュームと広がりを強調したり、副旋律を入れて、曲にストーリーを付けてみたり。そして高いレベルで音が強調した瞬間、演奏する側も聴く側も「一体感を感じる」瞬間を迎えるのです。それが、音が強調して倍音が出ている状態です。
 鳥肌が立ち、涙が流れ、手足がなぜか震える。会場全体がキラキラ輝き、天使が舞っているかのような光の渦を感じ、まさに、演奏する側、聴く側が一体になったかのような感動を感じる事ができる。これが「合奏」です。

 これは、そういう体験をしないと意味が通じないかも知れません。そういう意味で、理解が低いのは仕方が無いのかも知れません。音楽に興味のない人に、そういう体験をと演奏会に連れ出すことが難しいし、そういう気持ちで演奏会を聴いても、音を耳で感じることができないでしょう。それでも、倍音が出れば身体で感じるかと思うのですが、そんなときは、夢心地で寝ているんだろうなぁと。

 ただ、こういう音の原理で「合奏」ができているので、「個性を潰す」どころか、「個性」を高い次元で協調することであると、言葉で理解していただけると嬉しいです。


今こそ「合奏」!

 さて、なんでこれからの時代、この「合奏」という手法が重要なのか?です。

 「人口減少・経済縮小」という流れは止まりません。東京の一部中心地区において人口増加が起きているようですが、東京都内全域でも、すでに人口減少が起きているようです。地方に至っては見る影もないです。

 さて、このような状況は、日本のみならず、先進国ではどこでも経験がありません。世界的に見ても、戦争や災害などの特殊な環境でない限り、このような「人口減少・経済縮小」という流れを経験した国もないのではないでしょうか?

 このことは、過去の経験則や常識がそのまま通用しないと言うことの表れです。今まで誰も経験がない世界に突入しています。一つだけ分かっていることは、「今までと同じ事を繰り返しても、上手くいかない」と言うこと。いろんな事にチャレンジをして、前に進めるだけ進むという動きをしないと、どんどん負のスパイラルに巻き込まれて、地域崩壊へと加速していきます。

 そんな劇的に変わりつつある現状ですが、こんな時に「個性」と言っている場合ではありません。
やりたいヒトが、やりたい事を、やりたいだけ、やる
 それは、人口が増え、経済が拡大している時の考え方です。市場がどんどん広がっていくので、どこにもチャンスがあり、まさに、「個性尊重」の余裕の時代です。
 コロナ禍だからではなく、そもそも「人口拡大・経済拡大」は日本では失われていたのです。ただその上にしがみついていただけで、「変わらない美学」では生き残れないのです。かといって、「どう変われば良いか」誰も分からないので、「変わろうとするのは無責任だ」と言う人達がいることも事実です。それに答える「答え」は確かにありません。でも、だから「変わらない」を選択するのもまた、無責任のハズです。「変わらない方が正しい」と誰も言えないからです。

フルート四重奏600-min

 個性を尊重するということは、その人の個性を尊重するために、自分の個性を潰すと言うことではありません。それぞれの個性を尊重すると言うことは、自ずと、それぞれ相手の個性を尊重して理解を示しその上で、自分の個性と協調する事と思います。それが「妥協」と捉えられるようでは、努力不足ですね。
 「同じ音を出そう」とそこを追求しても、同じ音にはなりません。前述のコンピューターサウンドのように乾いた薄っぺらい音にしかならないでしょう。限りなく正確ですが。
 同じ音を出した上での次の演奏効果、表現、それをめざすから、「出ている音に合わせる」ことができ、結果的に「倍音」を生み出し、「多くの人に感動を与える」という通常ではできない結果を生み出す。
 つまり、目標をめざしても、目標を達成できないのです。目標の先にあるビジョンに向けて動くからこそ、結果的に目標を達成できるし、その先の目標を超えた「結果」を得ることができる。

 吹奏楽で言う「合奏」は、それぞれ全く異なる音楽理論で作られた楽器群、つまり金管楽器、木管楽器、打楽器、音板打楽器、弦楽器などなど。これらの個性を最大限活かし、時には「主役」、時には「脇役」、時には「その他大勢」と変化を付けて表現をして、楽曲の持つ「個性」と自分たち「演奏者全体」の個性を高いレベルで強調して仕上げる事を言います。

 クラッシックでも、カラヤンの指揮のベルリンフィルの音と、フルトベングラーの指揮のウィーンフィルとでは全く別です。さらに、カラヤンの指揮のウィーンフィルはまた別の音です。
 これを「個性」と言わず、なんと呼ぶのでしょうか?

 経済が縮小して、人口が減っていいきます。好きなことを好きにやっていたのでは、利益は減っていきます。そして全体の税収も減るので、公共投資も減っていきます。そして「経済破綻・地方崩壊」へと崩れていきます。水は、高いところから低いところにしか流れません。これを変えるためには、電気でポンプを回すとか、大きなダムでも造って物理的に「高い」処を作るなどしなければ、流れを変えることはできません。それには、それ相応のコストがかかります。ダムのように「イニシャルコス」がかかるケース、電動ポンプのように「ランニングコスト」がかかるケース、いずれも、公的資金が枯渇すれば、この流れは枯れ果てます。
 地域の課題は地域で解決しなければ、だれも他の地域の事まで考える余裕はありません。地域の中にも、儲かる業種、儲からない業種、やらなければならない業種、やりたくない業種、いろいろ存在します。誰もがやりたくない、でもやらなければならない、しかも、利益は出ない業種。こんなのが一番最初に頓挫します。
 外国の例だと、ゴミ収集が来なくなったり、下水が止まり糞尿があふれ出るなんてことも報道されますね。

 今回のコロナ渦に於いても、経済の末端の消費者に近い「飲食店など」は、すぐに目に見て分かる影響でした。そのため、多くの補助金がでて、それなりに対策が取られました。でも、時間が経てば、目には見えない、公共的な「休業できないが収入もない事業」がいくつも見えてきました。
 これらが実は繋がっていて「地域経済」が動いているのです。そう、この業種ってのが、先述の「個性」なんでしょう。どれか一つの個性だけ尊重すれば良いのでは無いという事です。そういう意味で、「集団よりも個性の尊重」と言ってはみたものの、実は、結果的に「集団」を守るという意味で、個性の集合体だと言うことを、今一度考えなければならないと言うことです。
 ある事業、個性だけが、儲かれば良い、尊重されれば良いのでは、もう、回らないのです。

 吹奏楽で、全国コンクールで金賞取ろうと言っているのではありません。コンクールは、冷静に自分たちの実力を知る手段です。それはそれで重要です。でも求めるものは、コンクールの結果ではありません。集団で楽しく演奏して「楽しかったね」という自己満足でもないのです。
 吹奏楽で演奏をして、多くの人に感動を伝え、多くの人のエナジーが集まり、次の何かを打つ刺激になっていき、地方経済を心から支えていく
 そして、みんながこの環境下で、より幸せを感じ、楽しい生活を持続可能できる、地方を作っていくこと。
 これが、重要な事ではないでしょうか?
 それを教えてくれるのが、吹奏楽の「合奏」という演奏法だと思います。

 あなたは、身体が震え、手足に力がはいらず、涙が自然と流れ落ちる「感動」を音楽で感じたことはありますか?
 私は、あります。


 音楽とは、そういう力を持っています。

 静鉄タクシーは、音楽のある街つくりのお手伝いをしています。

いつもながら、長文、最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

新任運転者講習・UD研修講師 談


何で吹奏楽やめちゃうの<
がんばれ吹部!